マンションの裏には住人達に「グランド」と呼ばれる広場があった

そこは公園ではなく本当にグランドだった

バックネットがあったので校庭だと思うが

隅の方なら子供が自由に入る事が出来た

かといって遊具がある訳でもないので面白く無く

その時間に外で遊んでる子供というのは

母親と一緒のベビーカーの幼児くらいで

幼稚園に行っていない私は何だか居心地が悪かった

そういえば私はこんなふうに

母に見守られながら外で遊んだ事が無い

 

私が1人の時の遊び場はいつもマンション1階にあるスーパーのお菓子売り場だった

当時のお菓子のパッケージは

男の子用、女の子用とハッキリしているものが多かったが

それを混ぜたままにせず何故か分ける事が好きだった

今日はアメ、明日はチョコ、その次はガム…

でも翌日には元通りになっているのでキリが無いのだが

本来なら注意されるであろう事をしているのは百も承知なので仕方がない

でもスーパーの店員さん達は誰もそんな事は無かった

 

「家庭でも幼稚園にひけをとらない教育可能」を信条とする母だが

特に教育熱心な訳でも無く、私が実践できる事や理解している事を驚く時もあった

 

母の興味は自分と私の身なりだった

海外の女優や子役がファッションリーダーだったと思う

私の髪を結ぶ時、母は毛質や後頭部の形を褒めた

そして祖母は若い頃に髪結いの仕事をやっていた事、

母の少女時代にも同じ事を母に褒めたと話した

 

母が選んだ服や靴は周囲の大人達から絶賛されていたが

私には他の子達との違いが分からなかった

1度だけ、近所の子が着ていた服を私も欲しいと言った事がある

それはテレビマンガのヒロインが書かれたものだった

その親子と挨拶をして別れると

母は嘲笑まじりの批判をした

それは私にとって強迫まがいの反対だった

あんな服おかしい、センスが無い、安っぽい、流行を追っている等々…

それは家に着いてもしばらく続き、

私が辟易していると母はこう付け加えた

「外では言えない家の中だけの話だからね」

母の感覚とは逆の場合、長い間お説教をくらうか

鼻で笑われて呆れるかのどちらかだろうと感じた出来事だった

 

ある日、母がマニキュアをつけていたので

次に私もしてもらった時だった

「ママに似て爪の下が黒っぽい…あんたもマニキュアが似合わない指なんだね、女の子なのに…かわいそうに」

爪の下とは爪と指関節の間だそうで

これで黒い方なのか

もっと色白な人の方が多いのか

必死になって母に聞いたが

この時の母は言葉も少なく私の目も見なかった記憶がある

マニキュアはどぎつい色でもなく透明に近いピンクだった

絵本や図鑑で見た事のある、花びらや貝殻のような爪の色なのに…

これが初めて母に自分を否定された瞬間だった

 

 

 

一方、両親との暮らしは日常生活ではなく
その大半がイベントのようだった

いつも昼近くに起きるダメな子と私をからかう母は
よくレストランに私を連れて行った

私は毎回ホットケーキのバター抜きを頼んだ
なぜバター抜きかというと脂の塊のイメージがあった
バターやマヨネーズを美味しそうに食べる母の唇は
必ず白く脂が浮いていた
だからマヨネーズも嫌いだった

帰りはあちこち買い物をして帰る
書店と文具店は必ず立ち寄り
絵本と絵描きノートを買う
何でもない日におもちゃを買う事もよくあった
衣類や靴などは百貨店のもので
必ず母が選んだものだった

サプライズのプレゼントも度々だった
お姫さまのようなピンクのネグリジェは
化学繊維のうえ就寝時に裾が捲れて
暑いのか寒いのか分からないほど着心地が悪かった
バレエも習っていないのに本物のトウシューズももらった
色はベビーピンクだった
サイズは合っていたが爪先立ちすると激痛が走るので
気が向いた時だけの室内履きになったが
それでも履き心地は悪かった

思えば私は
おもちゃはもちろん様々なものを
欲しいとねだったり駄々をこねたりする事は無かった
きれい、ステキ、いいな、など
1人ごとで感想を言うと
いつの間にか手に入っていた
だからネグリジェやトウシューズのように
困惑した事も多々あった

でもそれを喜ぼうとする自分もいたのを覚えている
なぜなら周囲の大人が期待だらけの顔で私の反応を見ていたからである
「ありがとうは?」母はもちろん、その場に父もいれば一緒に促す
「…ありがとう…」
「もっと心を込めて」

私にとって「ありがとう」は苦手な言葉になった
とても芝居がかった言い方をしないと認めてもらえなかったからである

私は母の実家で過ごす事が多かった

母と行った事もあるが
祖母が帰る時に一緒について行く事がほとんどだった
母と離れる事は寂しくなく
笑顔で手を振った事を覚えている

逆に私が遊びに行っている隙を見て
祖母が帰宅した事があり
私は祖母が恋しくて何時間も泣きわめいた記憶がある

いずれの場合も母は
「私が産んだ子なのに…」と思ったそうだが
今にして思えば物心がつく前から
祖父母はもちろん、様々な人に預けられた経験が
人見知りではない性格につながったのだと思う

母の実家は公営の長屋で
近くには公園や児童会館もあり子供達も多かった

祖母は温もりのある人で私は大好きで懐いていた
母より祖母が好きだと即答できた
祖父は私を眺めているだけで満足だったのかもしれない
自分から私に話しかける事もなかったが
怒られた事はなかった

夕方になると前掛けをつけた祖母が
公園に私を呼びに来る「ごはんだよ」
ささやかな夕飯だがとても幸せだった
暗くて狭い台所には
金属で出来た小さなおもちゃみたいなものが置いてある
聞くと火の神さまだそうで
台所の火の用心をお守りして下さるそうだ
もう1人小さな神さまがいたのだが
何の神さまだったか覚えていない
水の神さまだったのかもしれないと思う

母の実家へ泊まりに行くと最短で1週間は滞在した
逆に祖父母が私の家に来てもそうだった
飛行機に乗るのが理由だったが
それでも1年に数回は行き来があった

何度か泊まりに行くうちに私はふと思った
その日も夕方に祖母が公園まで私を迎えに来た
前掛けで手を拭きながら呼ぶ祖母を見て
なぜこんなに安心するんだろうと疑問に思った
そしてそのデップリとした体に抱きついて
祖母の顔を見上げて分かる
ここでは規則正しい日常生活が行われている事だった

朝起きて朝ごはんを食べて皆が出かけて行き
皆が帰って来て晩ごはんを食べるという
ホームドラマと同じ日常が流れていく事だった

小さな頃から漠然と感じていたのは
祖父母から与えられる健全な安心感だった

おそらく眠った状態で深夜に帰宅する私は
昼頃に起床し空腹を感じれば食事をとる生活だった

「起こしても起きないんだもん、ねぼすけだね」
よく母に言われた言葉である
そこには甘やかしと呆れが混ざっていた

家の中には退屈しないものが揃っていた
おもちゃはリカちゃん人形とおままごとで
どちらかというと遊んでもすぐに飽きるものだった
逆にいつまでも遊んでいられるものは
付録付きの幼児雑誌、絵描きノート、折り紙、ぬり絵、ビーズなどの幼児向け手芸品で
童謡のLPレコードを聴きながら遊んでいた

ある日ひらがな練習帳をもらった
字を覚えれば自分で何でも読める
本はもちろん、付録も自分で作れるし歌詞も覚えられる
そして何より手紙が書けるようになるのが嬉しかった

午後になると近所の子供達が幼稚園から帰って来る
私は幼稚園に通っていなかった
なぜなら母は自身の教育方針に絶大な自信を持っており
家庭でも引けを取らない教育が出来ると豪語していた
その方針はのちに妹にも引き継がれたが
でも私は同年代の同性の友達が欲しかった

近所の子供達の中には
意地悪な子もいた
マンションの一番近い部屋に住むミカちゃんは
私の記憶では初めての子供同士だった
でもミカちゃんもそのママも
私には氷のように冷たかった

3人姉弟もいた
長女ナオちゃんは自信無げでいつもメソメソしている子だったが
次女ユウちゃんはハッキリした性格だったので
よくケンカもしたが仲直りして笑い合った
いちばん下のアキラくんはやんちゃな甘えん坊だった
ここの家のお父さんは近くの工場で働いていて
顔も作業着も真っ黒にして夕焼けの中を帰って来る
夕飯のあとにお風呂に入って
テレビを見ながら川の字で眠るんだと言う
ホームドラマで見た事のある幸せな家庭が想像できた

管理人さんの娘ヨッちゃんは大人しくて優しい子だった
管理人さん夫婦も私達家族にとても親切だった
よくミカちゃんとヨッちゃんの取り合いをしたのを覚えている
ヨッちゃんはいつもハッキリ答えず困った顔をするだけだった

父と留守番した夜に
車で母を迎えに行く事が何度かあった

車には両親と同世代の男女が数人乗っていて
運転は他の男性がする事もあれば父がする事もあった
みんなワーキャー騒いでいた

大人達は笑顔で私の顔を覗き込む
何か言われると私は決まって言う事があった
「眉毛と目はパパ似、鼻と口はママ似」
それを聞いて大人達はますます笑顔になる
私はおませちゃんと呼ばれた

夜の街中をドライブしながら母を迎えに行く
洋風の街灯が続く道、華やかなネオン、ひと気の無い大きなオフィスビル
うとうとして目覚めるとすでに母は私を抱いていて
これからレストランに行くと言う
店はいつも違ったが私はだいたいアイスクリームを頼んだ
両親達はいつもゆっくりした
食べながら酒を飲み、ホールでダンスを踊る事もあった
父や友人達に踊りを教えられた後は眠ってしまい
目覚めるのはいつも昼頃だった

私は60年代に両親の出身地でもある
地方都市で産まれた
父は23才、母は19才だった

その数年後に移住したのだろう
記憶は都心近郊の街から始まる
両親が縁もゆかりも無い土地に越して来たのは
仕事関係などではなく、単に都会への憧れと思う

3階建ての広めの賃貸マンションで
1階はスーパーだった
ここで家族3人、住んだ期間は全く覚えていないが
3人揃った記憶は僅かしかない

母と2人で過ごす事が多かった
サイドボードの上には父の写真が飾ってあり
「パパはお仕事でいないの」と言っていた
父は娘の私から見ても美男子だった
外国人なのではないかとずっと思っていた

父が帰って来ると
母はいつのまにかいなくなる事がたまにあった
後追いして泣いた記憶は無いが
そんな時は父と2人でつまらない夜を過ごした
父は大人同士ではない会話を
鼻にもかけていない様子で
のらりくらりとかわした
テレビはマンガではないものを見るし
レコードも聞けない
夕飯はだいたい具無しのインスタントラーメンだった
家で父はゴロゴロしていて
私にもう寝なさいと言った
窓から夜の景色を眺めると
シャッターを閉めた商店や町工場、駅から徒歩で帰宅するサラリーマンが見える
パパは何の仕事をしてるんだろう?
ショッカーなんじゃないかと思った事もある
それほどたまにしか帰らない父には
生活感というものがまるで無かった

「あのね、あんたの両親は…
お父さんはヤクザで…お母さんは風俗嬢だった」

私の両親に騙されたと言う母の妹が
12年前、私に打ち明けた話である

父に関しては
さほどビックリしなかったのを覚えている
なぜならいくつかの理由と
いくつかの思い当たるフシがあるから

理由としては
父の体には刺青が入っており
母は父の いわゆる武勇伝 を楽しそうに語る事があった
その中には父の女グセの悪さの話題もあったが
寛大な心粋で許して来たと常々言っていた

思い当たるフシとしては
子供時代の遠いおぼろげな記憶の中で
漠然とした疑問があったから

そしてそれは
叔母の告白から一気に去来する
あの場所はどこだったのか
あの人は誰だったのか
あの言葉の意味は?
あの表情の意味は?
なぜ私はこんな仕打ちを受けなければならなかったのか

ショックと言うより
疑問が解決されていくたびに納得してしまう
反面教師にして来たからだろうか

でも私の子供達はそうではないかもしれない
自分達の祖父母の事で悩むだろう
だから秘密にし続けるつもりだった
今年、子供達が疑問を持つまでは