父の実家へ引っ越す事になったと言うので

私はヨッちゃん達にさよならの挨拶をして空港へ向かった

飛行機もこれが最後なのかなと思うと感慨深かった

母方の祖母と一緒に

楽しく乗った記憶しかなかったからである

まれに母と2人で

寝台車やフェリーで行った事がある

夜間の移動なので母は私におとなしくするよう注意したが

なぜか母は口数も表情も乏しく

私も、はしゃぐ気になれなかった

怒っているのか悲しんでいるのか

神経質になっているのか心配事があるのか

落ち込んでいるのか反省しているのか

当時の私はテレビマンガで見た事がある似たようなシーンを思い出そうと

子供ながらにも分析しようと考えていた

寝台車やフェリーの乗客は

夜間のためか、ほとんどが出張サラリーマンだった

夜になると浮かれて騒ぐ父とその友人達とは

全く違う大人の男の人を不思議に思っていた

 

父方の祖父母宅には何度か遊びに行った事があったので

もちろん面識はあったし人柄もよく理解していた

 

祖父は鉄道員を定年退職した後

畑で野菜を作って自分達で食べる生活をしていた

母方の祖父よりも若くしっかりした印象で

何より私に対して叱る事が出来る唯一の人だった

祖母は商店を営む実家から嫁いで来た人で

おっとり優しく、そして上品だった

亭主関白な夫に相談という名の お伺い を立てて

采配通りにこなす大人しい人だった

 

私は最初、緊張したものの

すぐに祖父母と楽しく暮らせる事を確信した

 

 

家に入ると何だか以前と少し違う

これは両親も知らされていなかった事なのだが

玄関脇に私の部屋が増築されていた

そしてピンクの学習机が置かれていた

 

小学校へ上がったら

嫌でも皆と同じ行動をしなくてはならないという

母の言葉で不安だらけだったが

期待が上回ったのを覚えている

 

祖父母は私が小学校に上がる年齢だという事を覚えていてくれた!

部屋と机まで私のために新調して用意してくれた!

そしてこれは

不安だらけの私を応援してくれている!

 

夜になり眠る前に

私の部屋の隣にもうひとつ増築された部屋がある事に気づいた

祖父母の新しい寝室だった

高齢なので2階での寝起きは

同居を機会にやめたのだろう

祖母に案内されて部屋に入ると

造りつけのガラスの戸棚の中に

陶器のマリア様と薄いピンクのバラの花、

白黒の写真が2枚あった

 

「この人はパパのお姉さん。そしてこの子は3才で亡くなった一番下の女の子」

私の頭を撫でながら祖母は言った

 

このガラスの戸棚は仏壇なんだ…

祖父母はいつからキリスト教なんだろう?

元々なのか、この子が亡くなってからなのか

私は祖母の真似をして手のひらを組んだ

私が初めてお祈りという事をした日だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビの歌番組はもちろん、

深夜に両親が私を連れて行く店々には

流行りの歌謡曲が有線で流れていた

私はいつも不思議だった

なぜこんな歌が売れているのか?

飲み屋で泣くような女の気持ちが共感できるんだろうか?

そういう歌の中の女はだらしないと思っていた

ホームドラマの母親像とはかけ離れていたからである

 

少なくとも我が家には専業主婦の母がいて

余裕ある暮らしが出来ているのは

父の出張が多いからだと思っていた

 

ある日、父が好きな女優の話題になった

私はまたしても共感できなかった

厚化粧のロングパーマで

あまり笑わない頬のこけた女優だった

母とは全く違うタイプの女性だったので理由を聞いたら

「パパの亡くなったお姉さんに似てるんだって」と母が答えた

私はまじまじと女優の写真を見つめ、

父はハーフに見えるほどのハンサムだから

お姉さんも美人だったんだろうと思った

 

母は専業主婦で家事もしたが

それでもホームドラマの母親像とはまた違った

若すぎるというのが大きな理由だが

マンションの近所のママともまた違った

子供の私が理不尽を感じるような

その場しのぎが母にはあった

言った事とやった事が合わず

ちぐはぐで一貫性が無い事で私は戸惑った

「前はこう言ったよね?」と確認しても

「きっとその時はそうだったんじゃない?」と

納得するのが難しい返答をした事もあった

そういう時の母は決まって

うろ覚えの笑い話をするかのようだった

今にして思えば

それは臨機応変などという

経過と結果を分析したものではなく

良く言えば適当、悪く言えば嘘だった

 

だから歌謡曲の女とも、

ホームドラマの母親像とも、

また違うタイプだと感じていた

母に連れられて叔母の家に行った事があった

同じ市内だが端と端で、電車に乗ったり約1時間はかかった

叔母は私の両親と違って結婚式は挙げたものの、

かなり質素な生活をしていた

自分達の実家のような平屋のアパートに

必要最低限のもので暮らしていた

私達の手土産の柿を

折り畳みのちゃぶ台の上で3人で食べた

猿かに合戦の絵本を真似て、

叔母と一緒に玄関脇に種を埋めた

夕方に帰る時、「近くに引っ越して来ればいいのに」と

笑顔で2人に提案したのを覚えているが

大人にはいろいろな都合があるんだろうと

子供心に察していた

 

数ヶ月後に叔母は女の子を出産した

私には会いに行った記憶はないので

母から話を聞いただけなのか、手紙と写真を見ただけなのかは定かではない

 

最初の訪問から約2年後、

私と母はまた叔母の家へ行く事になった

もう1歳になっていると言うサエコ

私にとって初めての従妹だったし、

初めて接する赤ちゃんだった

 

叔母の家が遠くから見える所まで行くと

叔母の足元に小さな子がいる

上は下着のシャツ、下はおしめだった

「その子サエコ?」こんなに大きくなったんだとビックリした

サエコは恥ずかしそうな笑顔で

「ネェネ」と言った

叔母は「サエコ、あんたが来るのを楽しみにしてたんだよ」と嬉しそうに言った

そしてあの時に土に埋めた柿の種から芽が出たと言った

小さなサエコは可愛かった

いつも一緒というぬいぐるみを私に紹介してくれた

薄汚れていたが愛着が感じられた

私達が仲良く遊んでいるそばで

母と叔母はお茶を飲みながら話していた

夕方、私はサエコに「またね」と挨拶して

叔母の家をあとにした

「やっぱり近くに引っ越して来ればいいのに」と母に言った

前回よりも別れが悲しかったからだった

 

でも数ヶ月後に

私と両親は父の実家で祖父母と同居する事になる

 

 

 

 

 

この頃の私は食べ物の好き嫌いが多かった

初めて食べたものでも私が嫌がると

母はもう作らなかったと言う

 

出先で知人に会うと母は

私の好き嫌いを私の前でイヤミたっぷりに愚痴った

同じようなものしか食べないから食事の支度にも困る、

だから痩せっぽちで体が弱く、年中風邪をひいている、

夜もなかなか眠らず朝も遅く起きる、

だから幼稚園も無理だけど

こんなにわがままで小学生になったらどうするのかしらねぇ

 

そして自宅では

幼稚園は行っても行かなくてもいいけど

小学校は義務教育で行かなきゃいけないもので

朝は決まった時間までに行って

昼は皆と同じ給食を食べなくてはいけない

好き嫌いがあると自分が恥ずかしい思いをするんだ、と言った

 

私は反省のしようがない反省をして

自責の念に駆られ、自己嫌悪に陥った

 

その頃、母方の祖父が入院した

末期の食道ガンだった

面会に行くと病室の皆に同じ食事が配られるが

子供の目には決して美味しそうには見えなかった

皆、同じ食事…

プラスチックやアルミの味気ない食器…

 

私は似たようなものをテレビで見た事があった

父と2人で家にいた時、テレビでやっていた映画の中で

刑務所の食事風景が映った時である

登場人物達が「臭い飯」とくちばしっていた

私は驚いて父に質問を繰り返した

「どうして臭いの?腐ってるの?分かってて食べさせてるの?」

腐ってないが、臭いは喩えだと父は答えた

喩えの意味は分からなかったが腐ってないと分かって私は安心した

すると父は戦後の闇鍋について話し出した

「どうせ大勢の他人に食べさせるから何が入ってるか分かりゃしない、

客の注文を聞いてから作る飲食店とは訳が違う」

 

これがキッカケとなり、

調理場で大量に作られる病院食や給食などに

私は不安や嫌悪感を持つようになった

 

ある日、母は私に

「ママの好きな食べ物をキライな子はママの子じゃないよ」と言って

大きいスプーンにバターを取って私に食べるよう促した

台所の流しの前に椅子が置かれているので

そこで食べなさいという意味である

嫌いなものなので吐く前提での場所でもある

「ほら早く、好きなものだと思えば平気」と急かした

私は泣いたりぐずったりせず

「どうして?」と質問もしなかった

なんとかやり過ごさなければ

この場がおさまらないと思っていたのは

母の様子が尋常ではなかったからである

バターがキライな私を

ため息まじりに呆れたり笑いながらからかったりした

子供心に泣いたりわめいたりしてる場合ではないと

何度もえずきながらスプーンのバターを口に入れたが

気が変わったのか許された

私はグッタリして眠りについた

その日は父が帰って来ない日だった

 

 

 

 

 

 

母と2人で

子供向けの映画や遊園地へも出かけた

 

母の実家に行くために飛行機や

時には寝台車、フェリーなどを使う時もあった

母と私は

おしゃれをして行儀よく振る舞った

 

母の実家に数日滞在すると

田舎の大人達は私に注目した

「かわいいからよ」母はよく言ったが

近所の公園で会う子供達は私を色眼鏡で見た

だから大勢の子供達がいても

私は1人で遊ぶ事が多かった

 

自宅マンションでの父とは

昼間、一緒に外出した事はないが

ひとつだけ記憶にあるのは

夜に眠ったままの私を連れ出した事である

 

甲高い笑い声と騒々しい音楽で目覚めた私は

天井のディスコライトが目まぐるしく動くのを見て

ここは普通の場所ではないと焦った

 

外出時に飲食店以外で食事を摂る場合は

小料理屋やスナックだった

カウンターキッチンと椅子があり、

年配の女性が場違いな私を気づかってくれるような場所だった

 

それが今日は

若い女性達が下着に近い姿で床にあぐらをかいて円陣に座り

その中央に父と私がいたのである

父も女性達も大笑いをしているが私は泣き叫んだ「ママはどこ?」

ディスコライトのせいで何もかもよく見えないが

「ほらママだよ」と知らない女性を指さした

その女性ははにかんでわずかに身を引いた

「ちがう!家に帰ろう」と言う私を無視して

父は女性達と笑いながら飲み続けた

私は泣き疲れて眠ってしまったんだと思う

この事は父に口止めされた記憶が無いので

子供ながらに

母には言ってはいけない事だと感じていたような気がする

私には脚にも特徴があった

膝から下の骨格が外側に張り出している脚である

両親はそれを「かまあし」と言った

父は自分がそうなので似たんだろうと言っていた

父はそれをたまにからかう時があったし

正座をしてはダメと言う時もあった

自宅ではテーブルと椅子で食事をするのだが

祖父母の家では足を伸ばして食べなさいと言った

その表情や口調からは

言いつけや決まり事などの堅苦しい厳しさは無く

こうすればいいんじゃない?というような

他人事のアドバイスのようだった

なのでおままごとの座卓や鏡台など

言った事を忘れたかのようなおみやげを買って来る事は多々あった

 

一貫性の無さは母にもあった

私が困惑してどうしたらいいか訊くと

面白がって適当に促す事もあれば

以前の指示を忘れたのか誤魔化してるのか

曖昧な返事をする事もあった

母は「なるようになるから先の事は案じない」と言った

 

昼間に父と2人だけだった日の事、

相変わらず父はテレビを見たりゴロゴロしたりしていた

私は近所のジュース屋さんに買いに行きたくて

おこづかいをねだった

テレビを見ながら爆笑する父が財布から出して渡したのは

小銭ではなく五千円札だった

ジュース屋は1階のスーパーの隣にあり、

確かバイク屋が本業だったと思う

ジュースは店の隅にあるガラスの冷蔵庫に入っていて

たまにスーパーの帰りにそれを買ってもらっていた

私が行くと店のおじさんは「何個?」と訊いた

紙幣が大きいお金だとは理解していたが

計算がまだ出来ない私は「買えるだけ」と答えた

その時、おじさんの顔色が変わったのを覚えている

笑顔が消え、神妙な面持ちで

1人で持って帰れるか心配そうに訊いた

思いのほかジュースの数は多かったが

大丈夫と張り切る私が店から出ると

おじさんはすぐにシャッターを閉めた

今日は私がたくさん買ったから売り切れたんだと嬉しく思った

父はジュースを見ると

驚いたものの、怒りはしなかった

そしてまたテレビに目を向けた

私は大量のジュースを1人で冷蔵庫にしまった

冷蔵庫は大きめサイズだったがジュースで埋め尽くされた

テレビでは日本のコメディーを放送していた

何をやらせてもダメな部下に上司が閉口しているシーンが何度も出て来た

さっきの父の表情とよく似ている…と私は思っていた

 

 

 

 

 

 

 

ある日、やっぱり幼稚園に通わせようと

母が私を連れて下見に行った

母が好きそうなカトリック系の幼稚園である

今にして思えばあれは見学会などではなく

編入生として途中から通園する形だったと思う

教室の後ろのドアからそっと中を覗くと

同じ制服を着た子達が席から一斉に私を見る

この子達の友達関係はすでに出来上がっているのは一目瞭然である

あれだ~れ?

しらな~い

キャハハ…

数日悩んで私は幼稚園に行きたくないと母に言った

「制服も靴も鞄も支払い済みなのに…」

のちに母は面白そうに話す時と

イヤミに話す時と両方あった

でも日本の幼稚園の制服制度は

個性が発揮出来ないのでダメだと言っていた

 

いつだったかヨッちゃんに

近所にある駄菓子屋を教えてもらった事がある

子供だけで横断歩道を渡ったのは

その時が初めてだった

老夫婦が細々と経営している駄菓子屋は

古かったが品揃えは豊富だった

いつも母と買い物へ行くスーパーには無いものが置いてあり

そのパッケージには懐かしい見覚えがあった

母の実家の近所には市場があって

その中のお菓子屋さんには様々なお菓子があった

普通にスーパーで売っているようなものから

大きなガラス瓶に入った計り売りのものまであった

そしてその一角にこぢんまりと駄菓子コーナーがあった

そこで祖母に買ってもらったものが

この駄菓子屋さんにはあった

パッケージの懐かしさはもちろん、

おこづかいで何種類か買える安さと

おみくじや風船などのちょっとした遊び道具もあり

私はこの店が大好きになった

家に帰ると母にこの事を話したのだが

あっさり却下されてしまった

それは交通事故に遭う可能性の心配ではなく

テレビでコマーシャルをしていないお菓子は

体に悪いものが入っているから食べちゃダメとの事だった

マンションの友達が食べている事については

「人は人」と言った

私が祖母から買ってもらった事を伝えたら

仕方がないというような事を話し続けた

それは祖母の添加物に対する知識不足を非難したのではなく、

預かってもらう立場だから指摘できないという意味だった

 

その後、駄菓子屋の前を素通りする事がたまにあった

横断歩道を渡らないので、正確には

駄菓子屋の向かいの通りを歩くという事だが

私には売っていた駄菓子よりも

店主の老夫婦が気になった

ゆっくりとした動作と口調、

お釣を渡してくれる両手や眼差しの皺くちゃな温かさ…

 

駄菓子屋で買って来たおやつを

ヨッちゃんが分けてくれる時もあった

体に悪いものの話をすると

ヨッちゃんはキョトンとしたあとに

気にせず食べ続けた

私達はニッコリして2人で駄菓子を堪能した

でもこの秘密がいつ母にバレるかと

落ち着かない数日を過ごさなくてはならなかった